NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
事務局長しんのエデュケーションコラム


2018年3月
 働く上で必要な力は好奇心

 今年はグリーンウッドで働き始め、14年目となりました。いつまでも若手のつもりが年齢も経験も中堅どころか、上の立場になってきています。事務局長という役割もありますが、自ずとスタッフ育成が重要なテーマとなってきています。
 そんな中でこれまで出会ってきたスタッフたちの成長度合いの違いは何かなとふと考えていたところ、好奇心の強さによるのでは?と感じています。
 仕事も、だいだらぼっちや泰阜村の暮らしでも、「やってみたい!」「知りたい!」という好奇心が強い人は積極的にチャレンジしていきます。行動する分、当然失敗もあるのですが、失敗は成長に不可欠なもの。土台にあるのはチャレンジ精神よりも、やはりそれを超える「好奇心」なのだと思います。
 しかし好奇心はどうやって育つのでしょうか?好奇心のないこどもはいません。しかし大人になると、その度合いは薄まってきます。それは「知っている」ことが増えてきているからもありますが、それ以上に、こども時代にどれだけたくさんの「知らない世界」に触れてきたかが重要なのだと私は思います。
 「興味がない」「自分には向かない」「見たことがある」「やったことがある」「苦手」…。自分の見ている世界(自分自身も含めて)が全てだと思い込むと、新しい扉を開くことを辞めてしまうのかもしれません。
 私は30歳になってからギターをはじめました。キャンプでギターが弾けるかどうかは、キャンプの雰囲気に大きく影響を与えます。しかしこどもの頃から音楽は大の苦手。リコーダーやハーモニカを発表するときも演奏できた試しがないほどでした。そんな私がギターを弾けるようになるとは思ってもいなかったのですが、それなりに出来るようになるのです。まさに「やればできる」。その「やれば」の一歩目を後押しするのはやはり好奇心です。

 来年度は3人の新卒スタッフが入社してきます。それぞれ「こんな山奥で就職」することに、なにがしかの戸惑いや葛藤があったのだと思います。それでもなお飛び込んだのは、きっと好奇心に他ならないように思います。これから彼女たちが成長し、さらに活躍するためにも大切なのは、その気持ちを大事にしてあげることなんだろうなと考えています。
 一方で、年を重ねたからと言って成長しないわけではありません。私自身もまだ見ぬ世界や自分を発見するために、「好奇心」のアンテナを頼ってチャレンジし続けていこうと思います。





2018年2月
 「学び」を促進するのは安心感

 先日、今年度最後の大学生の合宿事業が終わりました。6名の大学生が参加し、みな晴れやかにいい笑顔で帰っていったのが印象的でした。(詳しくは「グリーンウッドの種」をご覧ください。⇒ https://www.greenwood.or.jp/tane/?p=1083
私たちはこどもや学生、多くの人たちに「学び」と「成長」の機会を提供しています。そこで発見したのは、「学ぶ」ためには、「安心感」が必要だということです。「学ぶ」とは、チャレンジや行動、体験を通して自ら学びとるもの。当然失敗はつきものですし、自分が出した答えが必ずしも正解ではないわけです。間違っていても表現する、行動するという場面において、一緒に学ぶ仲間がそれを受け止めてくれることで、自分の「現実」を理解し成長につながるのです。
 これまでたくさんの大学生たちと話しをしてきましたが、「失敗は恥ずかしい」という言葉をよく聞きます。また「就職や政治の話しも友達としたいけど、笑われたら怖い」とも。自分が考えていることを自分で受け止める前に、周囲の反応こそが正解になってしまっています。
 これは正解を教える、これまでの教育の弊害ではないでしょうか。自分が「考える」ことよりも、「間違っていないか」どうかが重要になっているのです。こどもたちを成長させ、自律した人を育てるはずが、周囲の反応も含めた「評価」が価値基準とした人を育てているのは大きな課題です。
 では私たちは何をしているのか?それは参加者同士が一緒にご飯を作り、食べ、風呂に入るといった、つまり暮らしを共にする場を提供するのです。共同生活は誰か一人の意見や負担では進みません。誰もが出番があること、話し合って決める場を創ることで、お互いを認め合える場になるのです。「学校」だけ、「塾」だけ、「習い事」だけの閉じられた中では、そこでの評価が全ての価値基準になります。大切なのはお互いを支え合わなくては生きていけない、「必然の暮らし」の場なのだと確信しています。

 以前デンマークの学校を見学したことがありました。そこの校長先生が語った学校で大切にしていることは「誰もが学校や仲間といることが楽しいのだと感じることが一番」でした。デンマークは対話の文化を大切にしています。政治や社会の問題を様々な場所で語り合うのが当たり前だそうです。社会の中で自分を認めてもらえる安心感があるからこそ、こういった場が生まれるのだと思います。
 成長するためには、素直さが必要です。自分を大きく見せたり、他の人よりも優位に立とうとすることが目的になれば、「学び」を受け取ることはできません。今回の合宿では、「自分の無知さ」「人に頼ること、失敗は恥ずかしいことじゃない」「自分は一人前だと思っていたが、無力だと知った」「コトバにすることの大切さ」「周りを気にしすぎていた」という気づきがありました。自分の「今」をありのままに受け止めたからこそ、次の成長につながります。その土台となったのは紛れもなく、暮らしの中で培われた「思ったことを話してもいい」という信頼関係だったように思います。






2018年1月
 「野菜の高騰から考える消費」

 台風や長雨、日照時間の少なさから野菜が高騰しています。私もスーパーで白菜を買おうと思ってびっくり。例年の倍以上です。そういえば昨年の冬も高かったなと思いだしました。

 旬の時期の白菜であれば、一玉300円程度でしょうか。今は高くなって600円以上するものもあります。比べてみれば確かに高い。これまで半値以下で買えていたものを倍で買うのは抵抗があるのは当たり前です。
外食に行って7、800円の食事と思えば、何食分にもなる白菜の方が安いのではと感じなくもありませんが、外食という非日常なのか、普段の食材なのかで感覚の違いは当然あります。「お金」自体の価値はかわらないのに、出し渋ってしまうのはなぜなのでしょう?

 買うというのは一つの投票だという人もいます。安ければいいではなく、高くても社会や環境に良いものを買っていくことで、支持をしていくということです。
 以前、事業でニワトリをさばいてから、スーパーで並べられている精肉やコンビニレジ横の〇〇チキンを見る目が変わりました。常に「これは何羽分なんだろう?日本中で1日何羽分の肉が消費されるのだろう?」と考えてしまいます。きれいごとを言うわけではないのですが、あきらかに自分が「肉を手に入れる」過程を体験したことで、この投票行為は変わったと思います。

 問題は、暮らしの中で「生産」することが少なくなってきていることです。生み出す過程の労力や時間を少しでも知っていれば、それぞれの消費行動に影響を与えると思うのですが、そういった経験がないとやはり高い安いだけが判断基準になってしまいます。天候不順の中で作られた生産者の労力を踏まえた購入であれば、この値段も納得のいくものになるのではないかと思います。
一方で地球環境の変化、人口の減少、さまざまな社会課題から考えると、「食べたいときにいつでも食べられる」という時代は、そろそろ危なくなっています。その中で社会を構成する我々ひとり一人が「何を価値として、何を豊かさとし、何にお金を使うのか?」を考え、投票(購入)することが突きつけられているように感じます。

 買い物から帰って来てだいだらぼっちに寄ると、裏玄関に大量の白菜が。近所の農家の方がおすそ分けしてくださったようです。またあくる日には、家の事情で大根を出荷できず余っているから持っていかないかとの連絡。
 小さなつながりや縁を強めること。これもこれからの時代を生き抜く大切なコトのように思います。





2017年12月
 「やればできる」

 「やればできる」という言葉があります。これはふたつの意味があるように思います。ひとつはチャレンジに対する鼓舞。「やればできるよ!」と次の一歩を踏み出す応援です。もうひとつは、これまでやったことがないことを「やってみたら(当然)できる」というものです。そういった意味では、山賊キャンプや、だいだらぼっちのこどもたちの自信は、小さなやってみたらできたことの積み重ねでできているのだと思います。

 今月は登り窯がありました。陶芸の作品を焼くための窯で、4日間、スタッフとこどもが寝ずの番をして1250℃を目指す、だいだらぼっちの中でも最も大きなチャレンジのひとつです。そしてある意味これまでの暮らしの集大成でもあります。例えば1250℃まで薪で温度を上げるのはこれまでの風呂焚きの経験、薪の準備はこれまでの薪割りや山作業。なによりローテーションで回す窯当番は、毎日話し合い、時にぶつかりあいながら育ててきた、コミュニケーションと関係性の賜物です。12月の登り窯では4月からの成長を感じました。
 これまで大きな声が出なかった子が、入れる薪の数を大声でカウントしたり、温度を上げるためにどうすればいいかを考えている時、積極的に意見を言ったり。これまで持てなかったような重い薪を運んだり、当番に入っている仲間のために食事を用意したりと、みんなで登り窯を成功させるために自分ができる精一杯と思いやりを持ちよる姿は、これまでの一日一日の全ての「やればできる」が、こどもたちの成長の種となったのだと感じさせてくれました。
 登り窯を焚くこどもは、おそらく日本全国探してもだいだらぼっちだけだと思います。そんなとんでもないチャレンジですが、とても小さな「やればできる」の先にあるものなのです。
こどもたちの成長を見ていると、大人の「変化」の難しさを感じることもあります。大人になると「やればできる」というわかりやすいものは見えにくくなり、そしてチャレンジをすることも少なくなります。なにより「変化」を恐れるようになります。私自身も改めてこの1年、変化への覚悟があったか、もう一度考えながら年の瀬を迎えようとおもいます。
 今年1年もたくさんの応援ありがとうございました。新しい年も、泰阜村に訪れるたくさんの人の自信を育てる「やればできる」の場を創ってまいります。そして何よりも自分自身にチャレンジし続けてまいります。応援よろしくお願いいたします。





2017年11月
 都市から人を呼び込むよりも大切なコト

 グリーンウッドでは村と協力して山村都市交流の事業を行っています。いわゆる人口対策、Iターンを増やすということです。泰阜村に限らず、日本のどこの地域も人口が減り、2040年には846自治体が消滅するという話しまで出てきています。様々な自治体がIターン者への優遇措置、例えば定住促進支援金や、出産祝い金など、お金で優遇することがあります。
 正直、よりお金がもらえる地域が選ばれるとなれば、消費的な選択しか行われません。牛丼の安売り合戦ではないですが、お金の条件が選択の基準となります。そうなると、よりお金の出せる自治体が人を呼べるということになり、小さな地域はますます疲弊してしまいます。
 泰阜村はお金の判断基準よりも、泰阜村を気に入った人に来てもらいたいという想いがありました。そこで私たちチームが考えたのは、Iターンのためのイベントを行うのではなく、村に今住んでいる人々が、やすおかに住んで良かったと感じるイベントを行おうというものです。外の人に素晴らしい村をアピールするよりも、住んでいる人が村を楽しんでいる姿こそ、新たな仲間を引き寄せることにつながると考えたのです。
 昨年度から始まり、親子での森遊び、味噌作り、山菜取りなど、先日で5回目のイベントを迎えました。テーマはツル細工。回を追うごとに参加者も増え、今回は30名の親子が集まりました。
 講師の先生は村民で、材料となるツルもどこでもあるものということを知り、参加者は村の豊かさに驚いていました。また小さな村とはいえ顔見知りでない人もいる中で、お互いを知りあうきっかけとなっていまいた。「お金」ではないものを求めた結果、「つながり」や「自然の恵み」といった「豊かさ」を発見する機会となっています。
 
 「やすおか村にこんないい場所があるなんて知りませんでした」村で生まれ育った方が森遊びに行ったときに話していました。村の当たり前の暮らしは、住んでいる人にとっては「当たり前」。故に気づきづらいことが多々あります。そんな小さな宝に気づける力が地域を輝かせていくものに成長します。まずは私も含め、住んでいる人がここでの暮らしを「楽しむ」ことが、村の明るい未来につながると信じています。





2017年10月
 職業の決め方よりも大切なこと

 今月はスタッフの山作業がありました。グリーンウッドには陶芸を焼くための登り窯があり、こどもたちと年2回焚きます。5日間寝ずの晩をして1250℃を目指し焚き続けるため、膨大な量の燃料を確保しなければなりません。毎年この時期になると、山村留学のこどもたちが持っていけるように、スタッフは山で木を倒します。私もチェーンソーで6本ほど木を倒しました。スタッフ全体では30本近くは倒したでしょうか。
 チェーンソーを持つこともそうですが、木を伐倒している時に思うのは、「まさか自分の人生に木を倒すことがあるなんて」です。20〜30mの木が倒れる姿を見ながら、いつも不思議に思います。
 正直言いますと、グリーンウッドで働くことになるまで教育に携わる仕事をするなんて思いもよりませんでした。それが今や毎年1000人のこどもとキャンプをし、山村留学のこどもと暮らし、大学生の学びの場を作ったり、ラフティングボートで川を下ったり、さらには大学やPTAの講演会で話しをするなんて…です。ここでの暮らしは「自分の人生でこんなことがあるとは」の連続です。想像すらしない予想外の出来事は、この年になっても初めてチャレンジすることがたくさんあり、自分の可能性を広げてくれるのを感じます。

 今は小学生からキャリア教育をしたり、将来目指す職業のための習い事があったりと、私がこどもの頃とは随分雰囲気が違います。こどもの頃からなりたい職業を「将来の夢」と称して道を決めてしまうのは、私はなんだかもったいないなと思います。こどもが知っている職業は限られていますし、それ以外との出会いを狭め、つまりは自分の可能性も狭めていってしまう気がするのです。
 一方最近出会った大学生たちも、就職が決まっても晴れやかな顔をしている学生は少なく感じます。いくつかの内定をもらい、「こっちの方が、あっちの方が」と迷っています。どちらかを選んだ時の、まだ起きていない未来に不安を抱えているようです。
 
 14年前、私はグリーンウッドに来るかどうかを散々迷い、相当な勇気を持って飛び込みました。今はその選択は間違っていなかったと確信しています。この決断を支えているのは、「どんなことがあっても自分の人生を自分で引き受ける覚悟」だったと思います。
 どんなに準備をしても思った通りの人生になるなんてことはほとんどありえないことです。だからこそ、自分の人生を引き受ける覚悟がなければ、どんなところに行っても不安や失敗を感じてしまいます。キャリア教育や就職支援よりも大切なことは、小さなころから「自分の足で歩いている実感」を育ててやることのような気がします。





2017年9月
 主体性を失わせる社会の雰囲気
 
 最近、テレビや新聞、ネットで気になる言葉があります。それは「インスタ映え」。インスタグラムに上げた写真に「いいね」がたくさんついたり、フォロワーが増えるような写真が撮れる場所やモノ、コトを指しています。写真が映えるよう、料理の盛り付けがキレイだったり、珍しいものが見れたり、面白い写真が撮れる場所に人が集まるそうです。
 
自分が楽しいことや良いと思うことを誰かに共感してもらいたい気持ちも、素晴らしい景色の写真を見れば、行ってみたい!という気持ちもあります。けれど、そのための場所やイベントが用意されたり、わざわざインスタに載せるためにその場所に訪れるという話しを聞くと、みんなおんなじことやってもどうなの?と思ってしまいます。
 
 他にもネットでは「神対応」「絶賛の嵐」「腹筋崩壊」「涙腺崩壊」「ド正論」「非難殺到」…。こういったタイトルの記事のオンパレード。どれも極端な表現が目につきます。誰が決めたかわからない評価が、あたかも正解かのように表現されているこの状況に、私はとても不安に思います。
 その不安の正体は、自分ではない誰かの「いいね」や評価、価値観に自分の行動が左右され、しかもその状況が当たり前になっているということ。「思考」は誰にも冒されない「自由」なことのはずなのに、そこさえ世間の「雰囲気」で決められていることの怖さです。
 
 社員に求めるスキルは、「自分で考えて行動できる」と多くの企業が言っています。学校もアクティブラーニングと言って、考える授業が増えてきます。しかし、その割には社会全体はどんどんと主体性を失わせる仕組みになってきています。  
 テロや戦争の気配すらある現代社会。片側から見たら間違っていることも、逆から見れば正義になることは多々あります。そもそも人間社会は単純ではないのに、わかりやすい図式や記号化する雰囲気は、このような問題の本質も隠してしまうような気がしてなりません。
 授業や仕事といった限られた場所だけでなく、日々の日常に考えることがなければ、「考えないことに慣れる」ようになってしまうのではと危惧しています。





2017年8月
 雨のキャンプ「失敗は成功のもと」

 今年は日本全国、雨の多い夏となりました。泰阜村は災害になるほどの雨は降りませんでしたが、雨がまったく降らないという組はないほど。おかげで大切な薪が湿ってしまい、ご飯づくりに苦労する夏となりました。
 乾いた薪であれば、火おこしがさして得意でなくてもなんとか点きます。火が点くという事は、当たり前ですがご飯ができるまでの時間も短くなり、結果、遊ぶ時間が長くなります。しかし、湿った薪となると、それなりのテクニックが必要になります。木の皮を小さくちぎり、新聞紙の上に乗せ、なるべく細い薪(ナタで割った割り箸くらいのもの)をくべていって徐々に大きな火に育て、太い安定した薪を燃やすのですが、こどもたちは炎の大きさ=火おこしの成功とばかりに、新聞に火が点いた瞬間からうちわであおぎ、火吹き竹を吹きます。炎が上がるとともに、歓声も上がりますが、それもつかの間です。
 私が担当したキャンプでの出来事です。台風後のキャンプとあって食事づくりに手間取り、真っ暗な中、懐中電灯で照らしながらのご飯づくりを体験しました。お腹がすきすぎたこどもたちからは、「早くご飯が食べたい」と悲鳴も上がってきます。やっと出来上がったご飯は格別の味…ともならず、火がうまく通らなかった芯のあるご飯を食べ、侘しさを募らせます。
 しかしこの失敗がこどもたちを奮い立たせました。次は早く食べたい!おいしく食べたい!そのためには、薪を乾かそう、小さな薪を選んでおこう、木の皮を集めておこうと、次に向けて準備しはじめます。また私も見かねて火おこしの極意を実際にこどもたちの前で見せたのですが、見つめる瞳の真剣さが違います。苦労した共通の体験が、こどもたちをそうさせたのです。
 その後のごはんづくりは苦戦をするも、スピードも速くなり、最後のご飯づくりでは2時間程度で作り終わるという普段のキャンプと比べても格段のスキルを身につけていました。こどもたちは晴れやかな顔で言いました。「失敗は成功のもとだね!」
 「雨が降る」、「湿って火が点かない」は負の体験です。しかし、苦しい体験が学びの意欲を高めたのです。最初から私が火おこしの仕方を説明したとしても、誰も真剣には聞かなかったでしょう。
 キャンプは「教えない教育」の真骨頂です。火おこしだけでなく、自然とのつながり、人と人同士の関係、遊び、必然の中で様々なことを学びます。ここに正解はありませんし、評価されることもありません。学びたい、知りたいという意欲が高まるのは、経験があってこそ。キャンプ場のこどもたちの生き生きした笑顔見ると、ただ単にキャンプが楽しいという以上に、自分の成長を感じる喜びがあるからだと思います。
 2017年のキャンプも無事に全組を終了いたしました。ここまで来られたのも、本当に様々な人に支えられて続けているからこそです。その応援に応えられたかどうか、次の冬に向けて改めて考えていきたいと思います。今年も本当にありがとうございました。 





2017年7月
 山賊キャンプいよいよスタート!「無」から「有」に変わる体験

 2017年の山賊キャンプがはじまりました。
 キャンプの暮らしはこどもにとって全てが新しい世界へのチャレンジです。つまりこれまで「無」かった経験から「有」になる場所です。
 この「無」か「有」か、0か1かは、とても大きな違いです。そもそも0の経験から何かを生み出すことはとても難しいものです。
 例えばマッチを初めて見る子に、マッチはどうすれば火がつくかを考えろというのはナンセンスです。あるいは料理をしたことが無い子に、「メニューを考えろ」というのも同じこと。でも一度でも経験すれば、そこを起点に想像や知恵、工夫へと広がっていきます。1の体験は2にも、3にもなるのです。
 こども同士の関係もそうです。初めての友達と仲良くなる方法も、ケンカを仲直りする方法も正解はなく、どうしたらいいかわからないことはたくさんあります。それでも周りのこどもたちの姿を見たり、きっかけをもらって、「こうすればいいんだ」という1を積み重ねていきます。
 遊びも暮らしも、人との関わりも、経験があってこそ広がります。キャンプで出会うたくさんの「初めて」はこどもたちの未来の可能性につながるのです。
 
 こどもも大人も正解を求められていると感じる現代社会。キャンプに来るこどもやボランティアも、「間違ってはいけない」という不自由さを感じます。「楽しまなければならない」「こどもが笑顔でなければならない」とぼんやりとした正解を求めるよりも、どんな経験も価値あるものだと思ってもらうことこそ、大切なのではないでしょうか。
 私もキャンプの現場に立ちます。私が山賊キャンプで一番持ち帰ってもらいたい経験は、「失敗してもいいんだ」ということ。失敗して良ければ、どんなことも前向きに積極的に行動できるココロを育て、その行動は、次の新しい「有」の経験につながるからです。
 今年もこどもたちが存分にチャレンジし、たくさんの失敗ができる場を、山賊キャンプでは創り上げていきます。応援よろしくお願いいたします。
 





2017年6月
 話題の映画「みんなの学校」を観て

 先日、村内の自主上映会で「みんなの学校」を拝見しました。以下、HPより映画の紹介です。
 「大阪のある小学校では、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました(一部抜粋)」
 映画終了後、この映画に出演されている校長先生の講演会がありました。そこで語られた言葉を紹介します。
 「大空小学校で大切にしていることはたったひとつ。障害があるなしに関わらず、こどもたち一人一人の学習権を保証すること。」
 これはどの学校も「当たり前」のことです。誰もこの言葉に反対意見を出すことはないでしょう。しかし、「当たり前」に支援が必要な子とそうでない子は分けられています。「障害のあるなしに関わらず、一緒に学ぶ場」を作り、それが「お互いの学びとなる」場にすることは、理想としながらも実現することは大変です。簡単なことほど難しいのです。
 「みんなの学校」が本当にすごいのは、そこに向って先生も地域もこどもたちもみんなが行動し続けていることだと感じました。

 現代社会では「結果がすべて」という雰囲気が蔓延しています。政治も仕事も結果のみが優先されています。違う価値観を理解しあうため、あるいはより良い答えを出すためには、「理解し合おうという過程」つまり時間や対話が必要なはずです。分かり合おうという姿勢すら見られないことに、非常な苛立ちを覚えます。
 しかしこの映画は、「大切なことは、目指すものに向って行動し続けること、うまくいかなくても、立ち向かう覚悟が持っていれば実現できる」ことを訴えているように感じました。何か特別な力を持っていなくても、求める社会づくりができるのです。日々悩むことも多いですが、改めて自分自身を振り返ろうと思った映画でした。





2017年5月
 一人一票の覚悟

 グリーンウッドには職場のオキテがあります。それは「一人一票の覚悟を持つ」というものです。32年目を迎えるグリーンウッドは、創立メンバーから今年が1年目のものまで、20代から60代の様々なスタッフがいます。これまで団体が育つにつれてできあがった風土や考え方、不文律は当然あり、他の会社では絶対できないであろう先進的な働き方もグリーンウッドにはありますが、スタッフが変われば馴染まないものや、時代に合わないものも当然出てきます。そこで「働きやすい職場にするためのオキテをつくる」全員参加のワークショップをして出来上がったのが、このオキテです。
ここには次の文言が付記されます。
  • 一票を投じるのは意見を言うことではない。自分のあり方を問うことだ。
  • 人の話しを聞き入れよう。それは自分への問いかけだ。
  • 率直に言う。素直に聞く。それが信頼関係を生むのだ。
 生まれも育った環境も違う人が集まって会社は作られます。元々ある風土や考え方にあわせる「郷に入れば郷に従え」という考えを否定しませんが、やはり組織ありきではなく、構成する人々が幸せにならなければ意味がないのではとも思います。今回作ったオキテが素晴らしいかどうかはさておき、全員でこのオキテを創り上げたこと、そしてその言葉が、「一人ひとりが役職に関係なく等しく一票を持つこと。そしてその覚悟を持つこと。一人ひとりを大切にすること。」というものであったのは、とても象徴的であったなと感じています。
 会社も、地域も、村も、国も、「人」が集まって構成されます。そもそも集団ができて、ルールができるはずが、今はそのルールにはまらないと枠からはじき出される、そんな空気を感じます。一個の自律した人を育て、それが成熟した集団になれば幸せな社会に近づくはずです。まずは足元の自分の職場から挑戦していきます。





2017年4月
 ピザ小屋建設と分断の社会、そしてだいだらぼっち

 だいだらぼっちにはピザ窯があります。これは2007年にいただいだらぼっちのこどもたちと一緒に作りました。屋根も作るはずだったのですが、その年はピザ窯だけで精いっぱい。こどもたちの想いを引き継ぎ、次の年に作るから任せろ!と言って早10年。ずっと心残りだった屋根がとうとう完成しました。
 だいだらぼっちの相談員としてのプライドもあり、せっかく作るのだからホームセンターや材木屋から材を買うのはカッコ悪い、あんじゃねの森(元学校林で、事業で利用している遊び場の森)の木を使い、知り合いの大工さんに協力してもらって、自分たちの力で建設しようということになりました。
 20本近くのヒノキをチェーンソーで伐倒。4〜5mの長さに切った丸太を山の下から滑車を使って人力で引っ張り出す。設計図、墨入れ(材にホゾ穴や切る所に線を入れること)は大工さんに指導されながら私がやって、関わった全員でノコギリ、ノミ、丸鋸、カンナを使って、材を仕上げ、建設に関わる製材以外の作業は、ほぼ全てをやりました。
 終わっての感想は、一言「感動」です。これまで木でスプーンやイスを作ったことはありますが、小屋という構造物を作るのは初めてですし、なにより「無」から何かを生み出すというのは、ものすごい発見と喜びがありました。
 
 先日ある大学の先生から聞いた話です。こどもが全速力で走ると、その分、体力の底上げがされる。常に使う力はその6〜8割くらいだから、その全速力で走る、全力を出し切る、限界までやるということが自分の能力を高めることという話しです。
 これは体験も同じことが言えます。自分の知らないことにチャレンジすると視野が広がり、世界にあるいろいろなものに興味や関心を持つ「入り口」が増えます。自ずとそれはまた新たな社会とのつながりになったり、世界にある様々なものを想像するきっかけにもなります。今回の小屋建設で言えば、大工仕事の知識や林業の難しさばかりでなく、職人の技術の凄さや人がこれまで培ってきた知恵や技術への尊敬、寺社仏閣の見方に至るまで興味や世界は広がりました。一方で、行動が興味の範囲だけに閉じこもっていると、自分の世界は閉じてしまいます。

 32年目の「暮らしの学校だいだらぼっち」が始まりました。自分でご飯を作ること、洗濯することからはじまり、薪でお風呂を焚いたり、その薪を山から持って来たり。異年齢の仲間ができたり、その中に気の合わないのがいたり。こどもたちの世界は、興味や関心からでなく、「暮らす」という必然の中で確実に広がっていきます。
 分断が進みつつある現代社会において、この取り組みは社会づくりの大切なヒントが隠されているように感じます。そんな視点でまた今年もコラムを書き続けていければ。今年もよろしくお願いいたします。








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