NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
事務局長しんのエデュケーションコラム


2015年3月
 「テコ」の原理と「おいだき」の意味

 先日、大学のゼミ受け入れ事業を行いました。森にある木製のデッキが古くなったので、それを撤去し、森の木を倒して新たにデッキを作ろうというプログラムです。学生たちは慣れない山の中、慣れない道具を使っての作業でしたが、寒い中、みな協力してやり抜きました。普通の生活ではありえない経験と、2泊3日の仲間との共同生活は、普段語らないような想いを話したり、仲間の意外な一面を発見したりと、お互い刺激し合って、良い学びの場になったように思います。活動を終えて、「ここに来てよかったです!」という言葉と笑顔が私たちにとっても大きな励みになりました。
 
 さてその時に私の胸の中で「そうか!」と思う出来事がありました。
 それはバールを使って古くなった木材をはがしていた時に出てきた、「はじめてテコの原理使った!」という言葉です。
 たしかに小学校で「テコ」の原理は習いますが、日常生活で実際に使う機会はあまりないか、あるいは意識したことがないのかもしれません。
 同じく「おいだき」。これは五右衛門風呂を焚く際、お湯が少なくなった時に、薪を足して焚くことで、漢字で書けば「追い炊き」です。こちらもグリーンウッドのお風呂を焚いているときに、学生たちが、「家の風呂にあるおいだきボタンの意味がわかった!」と話していました。
 どちらも他愛もない出来事です。今回参加された学生が特別ということではなく、多くのこどもや若者はきっと同じ反応をするでしょう。振り返ってみれば私もここで働いて実感したことはたくさんあります。
 おおげさなようですが、これらは今の教育問題と大きな関係があるように思います。つまり学んだ言葉や知識を実感する、あるいは腑に落ちる体験がないということです。
 今後、学校では道徳教育が重要になってくるそうです。懸念は、結局言葉で学んでも、実体験がないなかで、本当の意味の「道徳観」は養えないのではないかということです。
 実感のない中で学びは生きません。いくら言葉が論理立てられていても、受け手にとって理解できる体験がこれまでになかったのであれば、伝わらないのです。つまり言葉を理解するために「体験」は不可欠なのです。
 
 我々グリーンウッドは「ねっこ教育」を標榜しています。枝葉のスキルや知識を身につけるよりも、形のない体験が「ヒト」を育てると考えています。たかが「テコ」の原理ですが、今こどもたちに必要なのは、知識よりも実体験であると確信した出来事でした。





2015年1月
 新年あけましておめでとうございます。

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 実は1月1日は2歳になる次女の誕生日です。予定日を過ぎてもなかなか生まれず、年を越すのだけは…と思っていたら、紅白歌合戦の途中で産気づき、日の出とともに産まれたのを、昨日のように思い出します。
 年を重ねてくると、1年が過ぎるのが年々早く感じます。一説によると、1年の速さは「今まで生きてきた年数分の1」の速さで感じるようです。つまり40歳の私は、今年は1/40の速さで感じるということ。なるほどと思いますが、年を取るたびに早く感じてしまうのはなんとも寂しい気もします。
 そう考えるとうちの娘は2歳なので、この1年は人生の半分にあたります。きっととんでもなく長い時間が彼女の中に流れていることでしょう。親から見ても一年前に歩けなかったこどもが当たり前に歩け、しかも言葉を話すようになるというのは、こどもにとっての1年という時間の重要性を感じます。
 
 親がこどもと過ごす時間は実はあまり長くはありません。せいぜい18年かそれくらいで、1年1年成長し、変化するこどもたちとの時間はとても貴重なものに感じます。
 社会に出るまでに何を教えられるのか?そう考えると特別な時間を用意するよりも、家族で過ごす「暮らし」の中に、どれだけ自分の生き方や人生の哲学があるかが問われるように思います。それは何も大仰な教育理念を伝えることよりも、食事の摂り方であったり、休日の過ごし方やテレビや新聞を見ての一言という、何気ない日常にこそあるように思います。
 そして一番伝えなければならないのは、私たち親が考えている「幸せ」とは何か?ではないでしょうか?多様化する価値観の中で、世間の雰囲気や見えない何かに惑わされず、自分自身の「価値観」を育てることがこどもたちに最も大切なことです。
 1年がはじまり、時が経てば1年が終わります。その積み重ねが人生です。より良い時を踏みしめ、今年も暮らしていきたいと改めて感じています。





2014年12月
 狩猟体験から学んだ「体験」の大切さ

 先日、大学生の受け入れ事業で、狩猟体験をしました。大学からは「食」をテーマにしながら、若者たちに「生き方」を教えてもらいたいという注文を受けて行いました。
 プログラム中、地元の猟師の方から連絡があり、イノシシがワナにかかっているから見に来るかとお話しがありました。またとない機会でもあったので、学生たちと見に行くと、ワナにかかっていたのは2頭、それも今年生まれたイノシシで、大人に比べると2周りくらい小さなものがワナである檻の中で暴れまわっています。学生たちも、生きているイノシシを見て、「これが殺されるの?」と動揺した様子もありました。
 銃をイノシシに向け、狙いを定める猟師。イノシシは時折観念したように、暴れるのを止め、銃口をまっすぐ見つめます。「ガーーーーン!!」2発の銃弾で、今まで生きていた二頭のイノシシは息絶えました。
 その一頭をいただき、学生たちの手でさばき、夜の食事で食べました。
 
 今まで生きていた命が奪われること。それを食べること。
 この経験は若者たちに何を与えたのでしょうか?
 
 内臓の生々しい様子。解体した時のまだ残る生のぬくもりや頭の重さ。生き物から食べ物に変わる瞬間。自分たちが生きている実感や生かされていること。都会の中では隠れてしまっている命。食べることは生きることであること。本当に感謝することとはどういうことか…。
 
 生きるために人は食べなくてはいけません。しかし、その向こう側には生き物の「死」が当然あります。それは知識として知ってはいますが、自らの身体を通じて学んだこととの違いは、その「向こう側」が自分たちの暮らしと同じ世界にあることを実感できることです。
 
 現代社会、便利な世の中になればなるほど、「身体を通じた体験」はどんどん削ぎ落とされていきます。キャンプでこどもたちに「蛍を見たことがある人?」と聞くと、驚くほど手があがることがあります。しかしその実態は、ネットやテレビで見たとのこと。「自分の目で見る」ことや「身体を使って体験する」ことと、知識で知っていることの本質的な違いに気がついていないのです。 
 今回の狩猟体験でも、学生たちからは「銃を見て、今世界で行われている戦争について考えた」「肉は食べるけれど、殺すところは見たくないという矛盾を感じた」「撃たれる瞬間の他の仲間との反応の違いに対する疑問」など、生や死、食とは関係ない感情に気づいた声もありました。つまり実際に見た時の、自身の心の動き「感動や驚き」の発見や、不思議に思う気持ち、体験にまつわる様々な気づきは疑似体験では得られないのです。体験の機会が失われると、発見や想像力を養う機会も失われるのです。
 人は、「生きる」ために世界とつながらなければなりません。しかし、自分の目の前にあるものだけが全てと思い込んでしまうと、自分の生き方や考え方を狭めて、関わる世界を小さくしてしまいます。昨今のテレビやネットの簡単に人を批判する様子を見るにつけ、片側からしか見ずに物事の正否を問う現代社会の危うさは体験の少なさから出てきているのではないかと改めて感じます。





2014年11月
 デンマークから学ぶ PART2「幸せの考え方は、ベストよりもベターを求めること!」

 前回のコラムでは「自分で決められる」という話を少し書きました。自分で決められる自由にも実はポイントがあります。それは対話の仕方です。何かを決めるときはゴールを設定します。しかし完璧に目的を達成すること、100点を取ることではなく、「よりベター」な選択をする話し合いをして決めていきます。だから矛盾も許容しながら前に進んでいくのです。矛盾とは、お互いの意見を取り入れることです。
 例えば今回見てきたゴミを燃料とした発電施設では、最終的に有害物質は出てしまい、それは結局埋め立てゴミとなります。我々日本人は、ついそこに食いついてしまいます。「有害な物質が出て、しかも埋め立ててしまっていいのですか?」それに対して「今はこれが最もベターな方法だ。だからこれからは出ないようにするために工夫を続ける」と答えたのです。
 もうひとつは「失敗をオープン」にすることです。失敗は往々にして隠そうという気持ちが働きます。しかしオープンにすると信頼が生まれます。そしてその失敗を土台にさらに「ベター」な状態を作り上げることができます。「より良くなる」という実感が、「自分で決められる」達成感をより強く感じるのです。
 
 「ベストを尽くせ!」日本の社会の多くは「ベスト」を求めます。仕事の結果も、部下への要求も、レストランにも、お店にも、商品にも、結婚相手にも、そして自分のこどもにも。そのベストの答え以外は全て「足りない」。だから議論も相手を打ち負かし、いかに自分が正しいかの言い合いになってしまいます。今の原発問題もそうではないでしょうか?再稼働反対、賛成、どちらも言い分はあります。でもどちらの答えも「ベスト」を求めれば、相容れないのは当然の結果です。もしかしたら婚活もそうかもしれません。『年収、性格、見た目』すべてをクリアしてこそ、最高のパートナー。今日、目の前にいる人ではない、明日出会える人こそがそうではないかと求め続けます。
 未来に出したい本当の答えの途中にある「今出しうる一番良い答え」を出すことは「ベスト」だけを求める人にはできません。
 一方「ベター」な答えは、許しあえます。もっと遠いゴールに向かって、全てが完璧でなくても、「今よりも良い」状態を感じられるからです。
 常に100点を目指す社会は、満たせなかった点数を数えます。よりベターをもとめる社会は、今までよりも良くなったところを数えます。どちらも同じ点数だったとしたら、どちらの考え方が幸せを感じられるでしょうか?
 
 今、日本の社会は閉塞感に包まれています。それは、どんなにモノがあふれていても、希望していた大学に進学しても、会社に就職できても、資格が取れても、「いつも何か足りない」ことを毎日感じてしまうからです。そしてこれほど不幸なことはありません。
 必要なのは、小さくとも「今より良い」ことを幸せと感じる「ベター」な生き方ではないでしょうか?







2014年11月
 デンマークから学ぶ PART1「人と関わるって楽しい!」

 10月のおわり、1週間ほどデンマークに研修に行ってきました。目的は「世界一幸福」だという国の教育を見てみたい!と思ったからです。
 デンマークでは「森のようちえん」「小学校」「中学校」「ロラン島で社会活動をされているグループの方との懇談会」「ゴミ処理による発電システム」「バイオマスエネルギー」「デンマーク最大のオーガニック農園」「王立美術学校」「デザイナーのお宅訪問」etc…。さまざまな場所で、さまざまな人に出会い、話を聞いてきました。一週間で見て、聞いて、感じてきたことをまとめます。
 
 デンマークの人に聞いてみました。「デンマークは世界一幸せな国と言われているが、あなたは本当に幸せ?」。考えてから「世界一かはわからないけど、幸せよ。なぜなら自由だし、家族がいるから」。
 デンマークの方が言う「自由」とはいったい何なのなのでしょうか?
 
 人類史上、これまで人間は「自由」を求めて闘ってきました。「人も物も思い通りにしたい!という征服」「支配や抑圧から脱出して自由になりたい」。あるいは「楽をして生産性を上げて労働から解放されたい」。自由を得るために戦い、今の社会が成り立っています。そのおかげで現代社会ではある程度の自由は確保されています。しかし経済的にも物質的にも豊かである日本では、そこまで「幸福」であると感じません。それがデンマークの言う「自由」…ひとつは自分の価値観でいられる「自由」がある。言い換えれば「自分が自由であることを理解している」。もうひとつは「自分で決められる自由」。このふたつを感じられるかどうかの違いなのだと思います。
 
 ではなぜそのような考え方ができるのでしょうか?今回見学した「森のようちえん」や「小中学校」でその答えを発見することができました。
 森のようちえんの園長は、最も大切なことは?の問いにこう答えます。「個々の能力を最大限に惜しみなく出せる環境を作り、その表現を自信を持ってさせること」。そして保育園は「みんな違う」を学ぶ場所だとも言いました。また小学校の校長先生は、学ぶことよりも社会性に重きを置き、「誰もが学校や仲間といることが楽しいのだと感じることが一番」と話しました。また「こどもを大声で叱ることをしない。なぜなら力による抑圧では教育ができない。ひとりの人間として正しい方向へ導く」とも。徹底的に、人といることが楽しく、安心であることを、体感として学ぶことを大切にしているのです。
 また幼稚園の頃から、輪の中で育ち、学校では知識ではなく「考える」ことを学びます。先生曰く、「知識はネットで検索すればいくらでも出てくる時代だ。しかし自分が考えることは教えてくれない。だから暗記よりも自分で考えることを教える」。
 自分で考え、意見を言う。そしてそれを安心して発信できるコミュニティーの中にいるから、自分の意見も聞き入れられるし、他人の意見も聞き入れる。その繰り返しをこどもの頃からすることで、社会に関わる力が育ちます。そしてそんな教育で育てられた人々が国を作るから社会もそうなるのです。その循環こそが、「自分で決められる自由」を感じられるのではないかと思います。
 
 グリーンウッドの事業に参加するこどもや若者との会話の中で、彼らの息苦しさを感じます。「こうであらねばならない」という重圧や、「ヘンだと思われない」ために相手によって自分を変えること。そんな輪の中で息苦しさを感じたこどもたちは、「コミュニティーという輪」を疎んじ、一人でいる方が楽だと感じます。「自分の考えを言いなさい」と言われるけれど、これまでの教育の中で「正解」を覚える方法しか学ばなかったら、どのように考えればいいのか戸惑います。
 
 この旅の中で、たくさんのデンマークの方と話しました。懇談会で、街で道を聞くとき、レストランで一緒に食事しながら。みんないつも親切でオープンで相手を尊重していました。関わる力こそ、社会を創ります。
 幸せを感じるねっこを育てるためには、ただ「人といることが楽しいんだ!」というシンプルなことを、こども時代から学ぶことなのではないかと感じます。







2014年10月
 男の子を育てるには

 小学生男子が長い棒を持って、見えない敵と戦っている姿、誰でも見たことありますよね。あるいは元男子たちならば、一度は経験があるはずです。最近知ったのですが、あの行動、女性には理解できないそうです。
この行動もそうですが、女の子と比べて、いつまでも男の子たちは幼く感じます。小学生くらいだと、女の子の方が物事を論理的に理解し、しっかりしてきます。一方男子はと言えば、棒を振っていたり、とにかく落ち着きがない。「しっかりしなさい!」と思わず言ってしまいたくなりますが、実はこの落ち着かない時期こそ、男の子を育てるのだと私は考えています。
 
 だいだらぼっちには男子が活躍する場がたくさんあります。その最たるものは「薪割り」です。斧を使って、薪を割る。ただそれだけなのに、男子は夢中になります。いかに太く大きな薪を割れるかに挑み、割れたものには賞賛の拍手が送られ、ますますやる気を増していきます。「薪運び」もそうです。山で倒したばかりの木は水分を含み、とても重く、中には20kgを超えるものもあります。その重い薪をトラックの荷台に運んだり、降ろしたりする作業で、こどもたちは競い合うように、より重い薪を持って運ぶのです。その様子を見た周りのこどもたちは、それを目標にしたり、頼りにします。
男の子は自分の「力」がどれだけ強いかを試したいもの。そしてそれが、人の役に立つことを体験から学んでいくのです。

 しかし、今の社会はどうでしょうか?男子が男子たることを発揮できる場が極端に少なくなっているように思います。風呂を焚くのもボタン一つ。買い物もクリックひとつでなんでも届く便利な世の中に、「力」を使う場をほとんどありません。さらに輪をかけるように、最近の新聞記事でも話題になっていますが、公園に「さわぐな」の看板があったり、「自転車には極力乗らないように」という文書が出たり、身体を使って、存分に発散する場すら奪われつつあります。
 ある俳優さんがテレビで話していた話です。「こどもの頃、あまりにも落ち着きがなく、親が何か悪いものに取りつかれているのではないか?と言ってお寺に連れて行ってお祓いをしてもらった」。
相当、このお母さんはこどもの落ち着きのなさに困らされたのだと思うのですが、それでも大人になれば立派に俳優として成功されている。笑い話として語られていましたが、どこでもある風景であり、大人になれば誰でも落ち着くことの答えのように思います。そもそも男の子は落ち着きがないもので、内に秘めたエネルギーを持て余していて、それらを発散する中で平穏を獲得し、培った力を発揮する中で、「男」としての役割ややさしさを得ていくのではないでしょうか。
 「落ち着きなさい」「あれはダメ、これもダメ」と言って、こどもの心を押さえつけると、どこかで歪みが生じてきます。伸びようとした心を押さえると、伸びてはいけないんだと学び、自分で考えてやったことが否定されることで、自ら考える力を奪います。
今の男子は「草食系」と揶揄されますが、腕白だったり、やんちゃだったりする子が叩かれる故、「草食」たらなければ生きづらい世の中になっているのかもしれないと感じています。
小学生くらいの男の子は思いっきり体を使って発散させ、できれば力を試させ、その力が人の役に立つことを知る体験が必要です。都会を見渡し、そのような場を見つけることはなかなか困難です。だからこそ、これからの時代、やんちゃな男の子たちに大人がどう接するかが、ますます大切になってくるのではないでしょうか。





2014年8月
 キャンプ終了!夏キャンプが育てる「幸せの価値観」

 8/30、全28コースのキャンプが終了いたしました。参加してくれたこどもたち、送り出してくださった保護者のみなさま、協力してくれたボランティアのみなさま、そして様々な場面で応援してくださった泰阜村のみなさま、だいだらぼっちの仲間たち、本当にありがとうございます。

 さて今年の夏キャンプは、後半は毎日が雨続き。保護者の方も心配されていた方もたくさんいらっしゃったかと思います。

 ところで雨のキャンプは晴れのキャンプに比べて、やはり「損」なのでしょうか?
 私はそうではないと思います。むしろ雨の方が学びが多いとも言えます。いや、あまりこう言うと、では晴れは損なのかという話になりそうです。 どちらが良い、悪いではなく、要は「見方次第」ということです。

 私が担当したスーパー2組はほぼ雨。当初から雨の予報もあったので、川の予定を後にして、屋内でできることを雨の日にやってしまおうと計画していたのですが、天気予報から晴れマークは消え去り、さらにその日は晴れるであろうと計画していた川遊びも中止になってしまいました。こどもたちはもちろん意気消沈。暗いムードが立ち込めます。
 しかし運の良いことに村の体育館をお借りすることができ、みんなで大球技大会をしました。バスケにドッジボールにキックベース。雨のうっぷんを晴らすかのように全身を使って遊びました。
 その後、大雨のため行けないと思っていたマンゴ川には最後のチャンスの日に奇跡的に晴れて、なんと行くことができました。しかも前日までの大雨で多少水も増えていたこともあり、いつもよりも流れが早くダイナミックな遊びを楽しみました。また最後の夜には、日中降っていた雨が止み、ほんの数分でしたが、空には満天の星空が現れました。
 そして何より雨で困難になったご飯づくりは仲間の絆を深めました。
 
 雨でできないことはたくさんありました。でも雨だからできたこと、雨が続いたからこそ、価値ある瞬間があったのも事実です。
 どんな出来事も良いことと悪いことの両面があります。良い方を見れば幸せな気分になり、悪い方を見れば損した気持ちになります。だから物事は感じる人次第で、幸せにも不幸にもなるのです。
 雨ばかりで心配されていた保護者の方も、帰ってきたこどもたちの口から「楽しかった!」という言葉が出て驚いたというアンケートもいただきました。雨続きのキャンプの中で、こどもたちは、困難な中にも楽しさと喜びを見出す力を見つけたのです。
 今年は雨が多くできないことがたくさんあったからこそ、こどもたちには「できたこと」「出会えたこと」をもう一度思い出してほしいと願っています。そしてその「宝」を見つけ出した「心」こそが、豊かな人生を歩める本質、「幸せ」をつかめる方法なのだと、キャンプを終えた今、改めてこどもたちに伝えたいと思っています。





2014年7月
 夏キャンプスタートしました!

 今年も夏の信州こども山賊キャンプがスタートしました。
その前日には、キャンプを実施する左京地区の役員の方にスタッフがご挨拶に伺いました。毎年恒例のキャンプということもあり、挨拶もそこそこに、お酒を交えての懇親に。村のおじいまは「またあのハラヘッタ!が聞けるなぁ」とうれしそうに話してくれます。「ハラヘッタ」というのは、キャンプで歌うご飯の歌のこと。食事ができたらこの歌を歌って、「いただきます」をするのが恒例なので、左京地区の方は毎食ごとにこの歌を聞いています。
 うるさくて申し訳ないと話すと、「こどもの声が聞こえるのが一番いい。なんもうるさいことはない」と笑って答えてくれました。たくさんの方に応援されて、山賊キャンプが行われていることを改めて感じます。
 
 さて話は変わりますが、今年のキャンプの初日はいきなり雨で迎えられました。残念な感じもしますが、キャンプなので急な天候の変化は当たり前。どんな状況でも「どうやったらうまくいくか?」「失敗したことをどうするか?」と知恵を絞って考えて行動するのが、キャンプの醍醐味です。
 例えばキャンプのご飯づくりもテレビやインターネットで、例えやり方をしっていたとしても、その通りにできることはまずありませんし、雨でも降れば当然です。「思っていた通りにいかない」ときに、「なんとしてでも作り上げる!」と前を向くのが楽しいのです。なぜならキャンプには正解がないから、どんな答えでも自分たちにとっての正解になるからです。

 今の時代、なんでも正解を出そうとし、正解でないものは、すべて間違いという窮屈な時代です。だからこどもたちもすぐに「このやり方であってる?」と聞いてきます。その空気を作っているのは、こどもの周りにいる大人が作り上げているものです。一方で、大声で騒ぐこどもの姿を温かく見守ってくれるのも周りにいる大人です。
 こどもたちは失敗から学びます。失敗をしないこどもは、つまりチャレンジをしないこどもです。「いまどきの若者」と言われる若者をつくるのも我々大人です。「今のこども」たちにどう接し、どう見守るかが、社会づくりの一歩になるのです。
今年の山賊キャンプも1100人のこどもたちが集まります。キャンプ自体もはじめてなら、一人でお泊りするのもはじめてのこどもたちもいます。どんなチャレンジもそれが成功したかどうかではなく、チャレンジしたことそのものが素晴らしいこと。この夏もこどもたちの目いっぱいのチャレンジをわたしたちも目いっぱい応援していきたいと思います。





2014年6月
 あぜ道散歩で見つけたのは?

 先日、1泊2日の森のようちえんを実施しました。メインは周辺にある草をとって、染物をしようというものでしたが、その中で、ご近所を散歩する時間がありました。といっても、歩くのは主に道路でなく田んぼのあぜ道。ちょうど田植えが終わったばかりの水田はと青空のコントラスト素晴らしい景色でした。
 3歳から5歳のこどもたちとその親と一緒に、なにをするでもなく歩いているとたくさんの発見をします。
「おたまじゃくし!」「変な虫みつけた!」「イモリが田んぼを泳いでる!」「毛虫がいっぱい。キャー!」。時には「生き物の足跡があった!」ということもありました。
 1kmあるかないかの距離を歩くだけでも、何かを発見するたびに足止めされ、じっと見入り、棒でつついたり、水が流れている場所に来たら、地面に寝そべり手で触れようと必死の姿。そんなことをしながら前に進むので、1時間以上かかります。それだけでも散歩を終えたこどもたちは本当に満足そうないい顔をするのです。

 こどもと遊ぼうと思うと、「何をすればいいんだろう?」と頭を悩ませてしまう親御さんは多いかと思います。かくいう私も実家にこどもを連れて帰ると、「やることがないから、子連れで遊べそうなところをネットで探す」なんてことをしてしまいます。でも実は小さなこどもたちにとって面白いもの楽しいことは、アミューズメント施設でなくても、足元にたくさんころがっているのです。

 誰かに「楽しませてもらう」、買って「楽しむ」のが当たり前の時代です。選ぶ選択肢は無限にありますが、それが「豊か」なのかと言うと疑問を感じます。なぜなら自分で考えて、発見して、創り上げる経験こそ、なにものにも代えがたいこどもたちの心を育てる宝となり、与えられたものは、「決められた遊び方」から外れることはないのです。

 泰阜は豊かな自然が残っています。田んぼも畑もない都会ではできないと思われるかもしれませんが、どんなところでも歩いてみるとこどもたちが勝手にたくさんの発見をしてくれます。大事なのはその発見を一緒におもしろがること。「おもしろがる」お父さん、お母さんの豊かな心こそがこどもたちの心を育てます。

 今度の土日、こどもたちとちょっと散歩してみませんか?





2014年5月
 食べる「幸せ」ってなんだろう?

 前回に引き続き「食」の話です。
 少し前の話になりますが、食品偽装の話題が新聞、テレビを賑わせていました。名前を聞いたことしかないような特別な食材が手軽に食べられている様子を見て、「ホンモノなの?」と訝しげに思っているところに、この話題に「やっぱり」と思っています。
おいしければ問題ないという話もありますし、詐欺だという話もあります。どちらもごもっともとも思いますが、果たして私たちは何を持って食べることに「幸せ」を感じるのでしょうか。

 だいだらぼっちでは、毎日20人以上でご飯を食べます。こどもたちが作ってくれたものを、時にはしたなく行儀が悪いと思われるくらいワイワイと賑やかに食べています。
 私は月に1,2回ほど出張に行きます。普段思う存分、食べたいものを食べられないだいだらぼっちの食事から、好きなものを好きなだけ食べられる出張の食事は楽しみのひとつです。しかし、いざお店でご飯を食べると、なぜかおいしくないのです。いや決してまずいわけではないのですが、どこで食べても一緒と感じてしまいます。時に手持無沙汰で携帯を見ながらご飯を食べた時は、食べ物の味が全くわからないまま終えたということもありました。エサのように、おなかを満たすためだけになってしまっていたのです。
 昨年度の終わりに、だいだらぼっちで餃子を作ろうということになりました。17人のこどもにスタッフを合わせて、その日は30人。一人3つとしても90個。この日は登り窯が終わったこともあったので、打ち上げもかねていたので一人十個以上、おそらく400個の餃子を作りました。出来上がった餃子にこどもたちが群がります。「おいしい!」「10個も食べられるなんて幸せ」。いつも以上に大騒ぎでした。数が多いから幸せだというのもありますが、これが買ってきたものなら、ここまで盛り上がることはありません。手をかけ、気持ちが入ったものに対する感謝とその苦労がわかるからこその言葉なのではないでしょうか。
 外食産業は今、人手不足に悩まされていて、解決のために調理を自動化しているという話を聞きました。確かに作り手がいなければ会社としては非常事態です。しかし誰の手もかかっていないご飯を一人で食べることを考えると私はぞっとしてしまいます。
そもそも私たちはなぜ食べるのでしょうか?食べることだけに意味があるのでしょうか?

 食品偽装の問題も一時期の大騒ぎは影をひそめ、すっかり過去の話になっています。決して根本的な問題が解決されたわけではありません。もちろん消費者の一人として企業の不正はゆるされるべきものではありませんが、「和牛」だから、「芝エビ」だから、有名ブランドで希少だからおいしいと判断するわけではないはずです。自分の舌と心がおいしいということ、そして何よりも誰かと一緒に食事を囲む「食卓」を見つめ直すべきなのではないかとだいだらぼっちのうるさいほどの食事風景を見て感じています。






2014年4月
 「体験」が豊かな心を育てる

 先月の3月8日。だいだらぼっちではヒナから育てたニワトリをこどもたちが絞めて、解体し、そして食べました。
 当初、「弱いヒナがいるかもしれないから」とそれぞれオスメス1羽ずつ余分にいただいたものが大きく育ち、そろそろオス同士の縄張り争いのケンカが懸念されていました。そこでどうするかをこどもたちが話し合いました。「1羽を食べよう」という意見も早々に出ましたが、命を奪うことに踏み切ることもできず、「別々に飼えば」「くちばしを切るという方法もあるかも」と長い長い話し合いがされました。その最後に出した答えが、「飼いはじめた自分たちが絞めて食べなければ、いつか卵を産まなくなったときのだいだらぼっちのこどもたちが悩むだろう。飼った責任として自分たちで絞めて食べよう」。
 絞められたニワトリは、その日の夕食に出されました。生きていたものを殺して食べるということに拒否感を持つこどももいるかと思いましたが、以外にもこどもたちの反応は「おいしい!こんなにおいしい肉はじめて!」絞めるときの神妙な顔つきはウソのように興奮し、中には肉嫌いだったこどもが、「はじめて肉をおいしいと思った」という言葉も出ました。
 印象的だったのは解体中、そして食べ終わった後に出てきた言葉です。「普段食べている肉も誰かがさばいているの?」「買った肉のパックにはたくさんのお肉が入っているけど、今回さばいた肉はたったこれだけ。いったい何羽分のお肉なんだろう」「絞めてすぐの肉がこんなにおいしいなんて!」「日本でどれだけの鶏が一日で殺されているんだろう?」「普段大きく見えた鶏が、さばいてみたら随分小さくなった。実は羽を膨らませていたんだ」
 また鶏を絞める前日、実はだいだらぼっちで長年飼っていた犬が死に、お墓を作ってあげました。「犬はお墓に入れたけど、鶏の骨は生ゴミに入れた。これって正しいのかな?」
 
 こどもたちは鶏を絞めたことで、今まで考えたこともないことを考えることになりました。世の中の仕組みの不思議、命の不思議、自分たちが生きているという不思議。たくさんの疑問や矛盾を感じ、そしてそれらに正解がないことに悩み、考えました。
 答えのない経験はこどもたちに考えるきっかけを与えます。そしてそこに自分のなりの「答え」を出していきます。その積み重ねが、自分の生き方を決める哲学を作っていくのではないでしょうか。自分の手足を使い、目の前で見て、味わって、初めて心が動き、考えます。これは生の体験を超えるものはありません。
 
 4月1日。2014年度のだいだらぼっちは18名のこどもたちでスタートしました。今年、鶏をさばくことはあるかはわかりません。しかし、「自分たちの手と足と知恵で生きる」一年の中で、こどもたちは今まで考えたことも、感じたこともないことをたくさん体験することになります。たくさんの「なんで?」という疑問を感じ、正解のない答えを自分たちで出していく経験こそ、こどもたちの心を豊かに育てます。
また新たな一年もこどもたちとがんばっていきます。今年一年もよろしくお願いいたします。








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