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代表だいちのGREENWOODコラム


2017年6月1日
 「不便さを楽しめなくて何が自然体験か」


 今の子ども達を取り巻く社会は、便利さがいよいよ飽和状況だ。家のキッチンからは火が消え、おいしい食事はコンビニで買えるレンジで温めるハンバーグになってしまった。インターネットでは今や何でも買うことができるし、街でも田舎でも、子ども達はSNSや電子メールでバーチャルな関係を築こうとうする。そこには会話や気持ちの受け渡しがない。自然との関わりも極力ない。それは人間らしさというものを放棄し始める前触れに思える。便利さというのはもちろん享受すべきだが、便利過ぎると人間らしさというものを失うのではないかという危機感を抱く。

 私は南信州の泰阜村で子どもキャンプや山村留学を実践している。自然体験や生活体験は「不便なもの」だ。言葉を換えれば「思い通りにならない」ということになる。自然も人間関係も暮らしも、決して自分の思い通りにはならない。それらに向き合うことはこのうえなく不便だ。しかしその「不便さ」こそが学ぶための土台なのだ。

 例えばマキでごはんを焚くこと、自然を大事にする片づけ方をすること、自分のことは自分でやること、考え方の違う仲間たちと話し合って(合意を形成して)暮らすこと・・・。自然や暮らしに存在するめんどうくさいことや不便さに向き合う(=関わる)ところに、様々な発見や工夫があり、そこに主体性やコミュニケーション能力を育む土台があったのではないだろうか。

 しかし、便利な山村留学事例はまだ存在する。個室があり、食事も洗濯も掃除まで賄いのおばさんがやってくれるという。家より便利な施設で、家より便利な生活を送っていて、しかし周りは山だから「山村留学」。山村に留まって、子ども達はいったい何を学んでいくのだろうと不思議に思う。不便さを楽しめなくて何が自然体験・生活体験なのだろうか。これは教育実践全般にもいえることだ。

 不便過ぎなくてもいい。でもちょっと不便なほうがいい。言葉を換えると「適度に便利」がいい。私達は、「不便さ」という学ぶための土台を失うべきではない。適度な便利さを保ちながら、体験活動という教育実践を進めたいものである。
 代表 辻だいち




2017年4月1日
 「世界に誇る「高学力」の村へ 〜グローバル社会を生きるにはもうひとつの学力が必要だ〜」


 近年、「学力の低下」が叫ばれている。国際学力テストの点数の低さが、国力や経済的競争力の危機を憂える議論と結び付けられて、教育の危機を表す指標としてしばしば用いられている。しかし、学力論はこれまで歴史の節目節目で議論されてきたが、そもそも「学力」とは何なのかという定義はまだなされていない。それにもかかわらず、学力テスト等ペーパーテストで数値化しやすい評価指標だけから論じられていること、そしてそもそも誰のための「学力」か、という視点が欠けたまま議論が展開されていることに大きな疑問を抱く。

 学力テストや難関高校・大学合格者数のように数量化できるような従来の「学力」は、「個人が所有する学力」といえる。分数の計算や漢字の聞き取りなど「個人が所有する学力」は、自立して生き、生活を支え、社会を発展させる原動力であることは間違いない。しかし、一生懸命所有した知識や技能が、他人を蹴落として自分の受験合格や出世のために使われていく場合が圧倒的に多い。そこには、所有した知識や技能を他人のためや社会にどのようにいかすのかという視点が欠けている。

 例えば、暮らしの学校「だいだらぼっち」では、4月にはお風呂の焚き口で何もできなかった子ども達が、秋には自分が入った後にお風呂に入る人のために薪をくべる(追い焚き)ことができるようになる。ここで培われた「学力」は単にお風呂焚きの習熟度が増しただけではなく、他の人を思いやる気持ちを伴う「学力」だ。
 
 来年度参加する子ども達のために、今年度参加している子ども達が来年の暮らしに必要な薪を調達して割って貯める。4月には土いじりもできなかった子ども達が、秋には稲刈り後に「もったいない」といって落ち穂を拾うようになる。ここで培われた「学力」も、水稲栽培の知識と技術、間伐による環境保全の知識と技術だけではなく、仲間の暮らしを長期的に見据える視点を伴った「学力」だ。
 
 地域住民総出で道路清掃等を行う「道路愛護作業」には、暮らしの学校「だいだらぼっち」の子ども達もスタッフも出労する。高齢化が著しい集落では、作業一つをとっても猫の手を借りたいほどだ。米作りにおいても、近隣住民に機械を貸してもらい、そのお返しにその家の米作り作業を手伝うことになる。これらの共同作業などを通して、4月には共に暮らす仲間のことを思いやれなかった子ども達が、「困ったときはお互い様」の意味を身体で学んでいくのだ。

 サリンをまいて世の中を震撼させた宗教団体の信者は、「個人が所有する学力」の視点からいえば「高学力」だった。しかし「他者との関係を豊かにする学力」の視点からいえば明らかに「低学力」だ。それは最近次々と起こる殺傷事件や少年犯罪、企業の粉飾決算や政治家や官僚の他人にウソをついても何とも思わない当事者にもあてはまることではないだろうか。

 テストの点数の量や有名大学の合格者数で評価されるのが、今の日本の当たり前の学力観だ。人より1点でも高い点をとる、人を押しのけて合格する、そのようなことが当たり前の中で培われた学力は、果たして本質的といえるものなのだろうか。もはや現在の教育の競争システムは「個人が所有する学力」を高める動機付けはできても、他者の役に立つようないわば「他者との関係を豊かにする学力」を育てることはできていないのである。

 泰阜村のような小さな山村の教育実践では、「個人所有の学力」の視点からいえば「低学力」かもしれないが、「他者との関係を豊かにする学力」の視点からいえば「高学力」の子ども達を育くみ続けている。これからの未来を生きる子ども達、そしてグローバル社会を生きる子ども達にこそ、「個人所有の学力」だけではなく、「他者との関係を豊かにする学力」を培わせたい。世界に誇る「高学力」の村へ、挑戦は続く。
 代表 辻だいち




2016年9月26日
「考えることをあきらめてはいけない 〜学生諸君、現状から一歩出よう!〜」


 今日から立教大学で後期授業が始まった。「自然と人間の共生」という授業。自然と人間の関係性がどうあるべきかを「考える」のがこの授業の目標だ。その達成のための教材として、泰阜村での自然と向き合う人々の暮らしや、その暮らしを土台にした教育活動を紹介する。
 後期は新座キャンパス。秋学期もまた履修学生が300名までふくれあがった。教室は超満員。ちょっと圧倒された。そんなに人気があるのかな、この授業が。
 学生さんに「なぜこの授業を履修したのか?」という理由をリアクションペーパーに記入してもらった。「ちょうどこの時間が空いていた」「単位を取りやすいと先輩から聞いた」正直に書いていいよと言ったが、本当に正直な学生だ。なるほど、人数が多いわけだ。
 一方で次のような理由も多かった。「シラバスでの授業内容を見て、ヒトメボレしました」「往復10時間もかけて講義をしに来るという驚きと、そんな先生がやる講義は面白そうだったから」「片道で何時間もかけて新座まで足を運んでいるということを聞いて衝撃を受け、「受けたい!」「会ってみたい!」と単純ですが思ったからです」
そりゃそうだよな、私が学生でも、そんな先生に興味を持つと想う。ワクワク感が、学生を衝き動かしたのかもしれない。
 そして次のような理由もあった。「私は自然が正直嫌いです。なぜ山奥に住むのか理解できません。なので、全く知らない山村の暮らしに興味を持ちました」「自分が地方出身ということもあり、自然に興味があった。自然とのかかわり方を知りたい」「最近は、災害により自然の恐ろしさを知った。今後自分が自然とどう向き合うか、良い機会になると思ったから」
 年を追うごとに、若い世代が持つ「自然観」が脆弱になるのを感じる。東日本大震災はおろか、熊本地震さえも、支援やボランティアの熱は冷め、いつの間にか報道も少なくなってしまった。自然災害から学ぶことは多いが、やはり若い力が今後の社会について想いを巡らせ、知恵を絞り、考え抜くことが大事だと想うのだ。一度も被災地に足を運んでない学生がほとんだが、そんな学生でも考えることはすぐできる。
 「一方的に教え込まれる授業ではなく、考えることを大事にする授業内容だから」こんな理由も多く見受けられた。そう、考えよう。今後、自然と人間の関係がどうあるべきなのかを。現状から一歩出よう。考えることをあきらめてはいけない。
 「教室内が良い環境に包まれていたと感じました」授業後の感想は、考えることで場があたたまることを感じた言葉が並んだ。さあ、300名の若い力と、毎週毎週、未来について考えようと想う。
 代表 辻だいち




2016年8月30日
「想い通りにならないことを楽しむ 〜そのセンスが平和を創る〜」


 8月30日。「信州こども山賊キャンプ」が終わった。7月22日から、全国から約1,000人の子どもたちと300人の青年ボランティアが参加した。
 今年の山賊キャンプは3泊のコースから11泊のコースまで全26コースある。どのコースでも、参加している子どもたちは、それぞれの期間の自然体験・共同生活を通して、確実に自分自身の世界を広げることにチャレンジしている。
 コース開始当初は、バラバラに動き、仲間に思いやりを持てなかった子どもたち。なかなかうまくいかないことにイライラする。それは、子どもたちをサポートする青年ボランティアもそうだ。子どもたちの自主性をサポートするはずが、想い通りにならないことにイライラして、いつしか子どもたちを手のひらの中で扱おうとする。そんな自分自身に気がついて、悩むボランティアたち。まさに混沌とした時間が流れる。それがいいのだ。
自然と向き合う暮らしは、混沌としている。スッキリと整理されてしまったら、それは暮らしではない。混沌さこそ、パワーだ。混沌とした暮らしの中からこそ、社会を変える力が産み出される。それを証明するかのように、最終日のたった1日で子どもたちに大きな学びと成長があった。
 仲間の個性を認め合うこと、仲間と協力することの大切さやすばらしさを体感し始めたのだ。それに気づいているのは、きっと子ども自身だろう。青年ボランティアは想い通りにならない子どもたちに対して、どこか「子どもにはこんなたいへんなことは無理だ」「こどもにはこんな危ないことはやらせられない」と想っていたのかもしれない。この子どもたちには言っても言っても何も聞き入れてくれない、もしかしてこの子どもたちは成長できないのではないか、そんなことを想っていたのかもしれない。
 しかし子どもはもともと、「不便さを楽しむ力」や「危険をコントロールする力」を持っている。大人(青年ボランティア)が、それを信じることができるかどうか、だ。最終日、青年ボランティアは、子どもたちを信じた。こどもたちを信じたからこそ、こどもが成長したのだ。
 「大人から信頼されている」という実感。その実感が、子どもたちの質の高い満足を導く。そしてその質の高い満足感が、子どもたちを次の行動へと駆り立てるのだ。
 自然や人間関係や暮らし。そもそもそれらは不便で危険がつきまとうものだ。言葉を換えれば、「想い通りにならないもの」ということになる。想い通りにならないからといって、強引に、力に任せて、理不尽に、想い通りにしてしまうことは、愚の骨頂だ。でも戦争や紛争はそうして起こってきた。日々の様々な悲しい事件も、きっとそうして勃発している。
 「想い通りにならないもの」を楽しむ。このセンスこそ、これからの時代に必要なもののひとつだろう。山賊キャンプのこどもたちは、きっとこのセンスを培っている。この山賊キャンプに参加して、「想い通りにならないものを楽しむセンス」を培った子どもたちは、きっと戦争や紛争を起こさないだろうなと、半ば確信的な想いを持っている。少なくとも私はこれらのセンスを帯びた平和な世界をイメージして、子どもたちと山賊キャンプを行っている。
 ヒロシマ、ナガサキ、そして終戦。毎年めぐってくる8月に、子どもたちと山賊キャンプを開催できることを幸せに想う。
 代表 辻だいち

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